ブリュッセルの思い出
国際ピアノコンクールは数あれど、特別に権威あるものは3つか4つでしょう。ベルギーエリザベス王妃国際音楽コンクールはその1つです
私はまず最初にベルギーに対しては、非常に鮮やかなマンガ絵に出会って親近感がありました。私は、たくさんのベルギーの偉大なアーティストの9人のマンガコレクションを持っています。例えば、エルジェ、フランカン、ペヨ、モーリス、ヤコブ、ファンデルステーンなどです。
私がパリ音楽院で勉強していた1960年代、エリザベス王妃国際コンクールが注目され始めており、私は当時ほとんど経験がないのもかかわらず、1972年にエントリーを決意しました。私が1次審査のときに弾いたものは、ショパンエチュードOp.25-10,Op10-10、リスト超絶技巧練習曲4番マゼッパ、5番、ドビュッシー練習曲opposite sonorities、プロコフィエフ練習曲Op.2-4、ショスタコーヴィチソナタNo.1 Op.12、それにこれは主催者に感謝すべきですが、ヘンデルのsublime Suite もありました。これは、ほとんど弾かれることはないものです。
27か国68人の参加者は、まず、24人に絞られました。審査員には有名なピアニストも多く、エミール・ギレリス、レオン・フライシャー、アニー・フィッシャー、モニク・ド・ラ・ブリュショルリ、などです。モニークはいうまでもなく私の先生でしたが、私に投票することは禁じられていました。あくまで公平に、ということで。
二次審査では私は39度の熱をだしてしまいました。ブルガリアの審査員のLiuba Entchevaが私の額に手をあてて熱を測ってくれたことを覚えています。私は、リストのロ短調ソナタ、バッハの前奏曲とフーガNo.4、モーツァルトソナタk333、メシアンの愛の眼差し、ウェーベルン変奏曲Op.27を二次審査では弾き、ベルギーの曲では、Peter Benoit の第3,4番幻想曲を選択しました。二次審査での指定曲は、Paul Baudouin michelの難曲 Concentric variationsでした。
そこから12人のファイナリストが選ばれました。ファイナリストは、オーケストラと自分で選ぶコンチェルトを1曲、ソロ曲で二次審査でのリストに入っていない曲を一曲、1972年にこのために作曲されたベルギー人作曲家のJacques Leduc のコンチェルトを指定曲として弾きました。私はラフマニノフの第3協奏曲とショパンのポロネーズOp.44を弾き、課題曲の20分間3楽章から成るコンチェルトをたった8日間で勉強して弾きました。幸いなことに暗譜する必要はなかったのですが、日本人の神谷郁代さんだけは暗譜したのです!
私たちファイナリスト12人は、アルジャントゥイユというウォータールーの近くにある町に隔離され、最終審査に備えるという気が重い要求の準備をしました。私たちはみな、このJacques Leducのよく書けているものの難しいコンチェルトを練習するのに時間がなく、ほとんどパニックになっていました。しかし、みな日が経つにつれだんだんとマスターできました。
教訓:どうしようもなければなんとかなる!
いよいよ最終日が始まりました。ソビエトからの参加者は当局が十分に準備させておりコンチェルトもコンサートで弾いているなどしていましたが、私はそれとは違い、ラフマニノフの第3協奏曲もほとんどはじめて演奏するようなものでした。TVやラジオも入り、無慈悲な審査員を前に、私のプレッシャーは最高潮でした。
本番のDefossez指揮ベルギー国立管弦楽団とのリハーサルの前に1回だけマニュエルローゼンタール指揮のパリ音楽院の学生オケとリハーサルできました。私は何よりもDefossezとベルギー国立管弦楽団の働きぶりに感嘆しました。午前中に2人の参加者のコンチェルトを4曲(つまり2曲は選択した曲、課題曲を2回)やり、午後も他の2人と同様に4曲、一方同じ午後には、前日リハーサルした2人とも再度4曲リハーサルをします。そんな感じで12人で計24曲のコンチェルトを6日間でやり遂げるのです!
1972年6月3日にようやく授賞式でした。審査員が舞台に並び、審査委員長Mr.Marcel Pootから順に名前が呼ばれていきます。呼ばれたら審査員と順に握手します。私は9位で名前が呼ばれやはり失望しましたが、2200人の聴衆のすごい歓声と審査員へのブーイングにより救われました。私は目を丸くしている審査員達に誇りを持って挨拶しました。これはTVとラジオでベルギーにて中継されていました。
この驚くべき聴衆とメディアの後押しは、まだ鉄のカーテンが存在した当時の西ヨーロッパ側からの唯一の入賞者という満足な結果以上に、意味のあるものだったと言わざるをえません。Baudouin 国王は「この若いピアニストはほとんど革命だった!」と言ってくれました。
現地を去る際は、ベルギー人ピアニストの Alex de Vriesの未亡人に車に乗せてもらいました。彼女を待っている間、私は彼女の友人であったエミール・ギレリスと彼女が話しているのに気づきました。ギレリスは車の中の私をみて、右手でお祝いの親指アップをしてきました。彼女が戻ってきて言いました。「ギレリスがあなたに“なんの心配もない。君は偉大なキャリアを築くよ”と言ってくれって」と。
ギレリスがソ連のピアニストを優勝させなければ審査員を辞めると机をたたきながら脅したという噂がありますが、もうお分かりでしょうが、単なる噂でしかありません。
私はアントワープへの帰りの電車で、この特別なコンクールの驚くべき人気を目撃し、いろいろな人々から声をかけていただいたことに深く感動していました。
それだけでなく、コンクールが終了する前から、ベルギーDeccaのPaul Bertinchamps から私とDavid Livelyの2人はそれぞれレコーディングのオファーを受けていました。彼は私たち2人ともトップ3に入賞すると確信していました。Davidは6月5日に、私は6月6日の午前中になんとたった4時間半でモーツァルトソナタK333とリストのロ短調ソナタを録音しました。その日の午後には国王と王妃の主催するレセプションに出席しなければならなかったのです。
6月9日には優勝者であるヴァレリー・アファナシエフのコンサートがあり、そのときにはレコードディストリビューターのAntonie に初めて会いました。彼は私のベストフレンドとなりました。それからベルギーDeccaはレコーディングからなんと3-4日で私たち2人のレコードを販売し始めました。また、ドイツグラモフォンベルギーはファイナル進出者のトップ3のコンチェルトのレコードを発売する予定でした。しかし、聴衆やメディアの後押しのおかげで私のレコードも発売することになりました。
およそ20年以上前に私はこの録音の版権を購入し、それがこのCDとなりました。
私はエリザベス王妃コンクールの関係者、ベルギー国立管弦楽団のみなさん、指揮者のDefossez 、ベルギーの聴衆のみなさん、メディア、すべてのベルギーの友人と忘れられない思い出を共有できたことに感謝します。
2012年9月4日 フロリダ
シプリアン・カツァリス